映画「Friends〜もののけ島のナキ〜」評

僕は「泣いた赤鬼」が童話のなかでも特に一番好きで、後述しますけれどある絵本を大人になってから読んでさらに好きになったんです。そんな「泣いた赤鬼」をもとに作成された映画、しかし監督は山崎貴ということで、不安要素もありつつ、観に行きました。

観に行ったのは日曜の昼間で、普段地元の映画館は平日のレイトショーばかり利用しているので、やっぱり休日は人が多かったですね。2D上映だから、そんなにいないだろと思ったら子供連れがいっぱいいました。やっぱり上映中の子供たちの反応がすごくて、笑わせるところは笑って、終盤は声出して泣く子もいて、なによりコタケ(もののけ島に入り込んでしまう人間の子)には「かわいい〜」っていう反応でしたね、確かにかわいかったんですよ、声をやってる女の子も相まってね。そんな子供たちが映画館から全員いなくなったのを見計らって、思い切り舌打ちとため息を吐かせていただきました。この山崎貴監督という方は、どういう自信があってこういうアレンジをするのかな?って「BALLAD」のときにも感じた疑問が今回もおもしろいくらいに盛り込まれていましたねぇ〜。

今回はダメなところいっぱいあって、できれば全部言いたいので先に一番ダメなところ言います。細かい部分自由に見てください。
原作同様に、赤鬼のナキと青鬼のグンジョーという二人の鬼がいて、グンジョーは姿を消す能力があるんですが、能力を使える制限時間や、使いすぎて背負うリスクや負担もないので。その能力が映画全体を麻痺させているんですね。もう映画中でおこるあらゆる問題が、「お前の能力でなんとかなるだろ!」ってものばかり。たとえば中盤、コタケを人間の村に返しにいくシーン、グンジョーが先にいって姿を消して、合図を送るという作戦なんですけれど。「お前が姿を消して運べばいいじゃん!」って思うんですよ。でもそれだと、コタケが宙に浮いている状態になるのではって疑問を持つ人もいると思いますが違うんです。グンジョーは触れている者の姿も一緒に消せるんです。実際にナキを一緒に消すシーンもあります。たぶん、お別れ描写とハナビダケというキノコを物語上で生かしたかったのかなぁ。それに二人は戦争で母親と別れてしまったエピソードがあって、実はグンジョーの母親は別の島で生きているかもっていう話になって、そのためには人間の世界を超える必要があるっていうんだけれど、それも姿を消して移動すればいい話ですし、グンジョーが最後に島からいなくなった理由である、原作同様の人間がナキを疑うからいなくなるという決断も、そういうときだけお前が姿消せばいいじゃん!とか考えてしまうんですよね。なんで、こういう余計な機能を付けちゃうかな?別にその能力が特化して役立つこともないですし、使う場面も別の方法でなんとかなるようなことなんですよねぇ〜。
これだけで映画全体がブレブレなんですけれど、他にもダメなところがいっぱいです。まず、時代に対する語彙の選択が出来てません。この世界みるからに昔の日本です、中盤サムライが登場するくらいですから。なのに、コタケが魚みたいなものに襲われそうになるのを、ナキが魚をつかまえて投げたのをグンジョーが棒で打ったあとで、
グンジョー「俺は名バッターだな」
ナキ「俺のコントロールがいいんだろ」
なんで、そこだけ横文字?打者と投球でいいでしょ。たぶん、観ている子どもにも分かるようになんだろうけれど、だったら全体的にそういう言葉にすればいいのに、子供のことを“わらし”って呼んだり、母親のことを“おっかあ”って妙なところだけ昔話調の言葉なの、なにそれ?それに登場するサムライも、もののけ退治のために雇ったんですけれど。見るからに弱そう。あそこは、体格の良い強そうな感じにしてナキやグンジョーが勝てないかもしれないくらいの風貌にするべきですよ。カツラがズレそうだとか、体が小さかったり、太っててのろかったり、間抜けな笑わせキャラみたいにする必要はないですよ。後述しますが、グンジョーが変身するときのビジュアルに力入れるなら、そういう部分にも力入れてくださいよ。サムライたちだけ他の人間とは違う八頭身ぐらいにしちゃってもよかったと思います。
ビジュアル面でおかしいのはサムライだけじゃありません。そもそもコタケが、もののけ島に来ちゃったのは、兄がもののけ島に入るのに付いてきて置いていかれたんですが、兄は島のキノコを採取し高く売って、母親の病気の治療費にする目的で入ったんです。でも、そのあと登場する母親はそんな素振りも見せないし、確かに体弱そうですけれど、村の人間がみんな、頭でかくて体ほっそりみたいな体格だから特別病弱にも見えず、母親病気がなんの意味も持たないんですよ。

これ、あくまでも僕の考えたシナリオですよ。今回の物語でいろんなキノコが出てくるんですよ。そのなかにテンニョダケという、見つけるのも大変で凄いおいしいキノコがあるんですよ(正直めちゃめちゃマズそうなんだけれど)、そのキノコにどんな病気も治るって設定を一つ加えて、コタケが途中で高熱出したとき、食べさせて病気が治ることにして、ナキとコタケの別れで、ナキが手土産に持たせたテンニョダケをお母さんが食べたら元気になって、お母さんはもののけを信頼するようになる。これでいいじゃねぇかよ!もうちょっとさ、キノコを上手い具合に生かす方法あっただろ。

おかしいのは人間だけじゃない。そもそも、もののけ側にナキとグンジョー以外のメンバーがいるのもおかしい。原作のどこが泣けるかというと、別の世界の人間と仲良くすることで、同じ鬼の仲間を失うところなんですね。なのに、ナキとグンジョー以外のもののけがいるせいで、ナキが一人ぼっちになっちゃう感じがしないんですよ。グンジョーはナキが嫌われているから母親を探しにも行かずに、島に残ってナキとそれ以外のもののけの間に立ってあげてるらしいけれど、ナキは嫌われているとはいえ、ジャイアンみたいなポジションだから、いつでももののけたちを自由にもて遊べるし、グンジョーがいなくなっても長老というまとめ役みたいな人もいるから、間に立つために残る必要はないんじゃないかなぁ?それにこの仲間たちが、物語上で重要な役割を持つのかなと思ってたら、本当にただいるだけで、存在意義がない。あくまでも僕の憶測ですけれど、阿部サダヲさんやYOUさんの声を使いたかっただけにみえるんです。

ここまで言いましたけれど、終わり良ければすべて良しで、最後に感動すればいいじゃんとおもっていた終盤。グンジョーが村の人間たちを襲おうとするんです、凶暴な姿に化身するキノコを食べて。で、ビジュアルも確かにカッコいいし、子どもが見たら興奮するかもしれないんですけれど、鬼っていうより、モンスターハンターあたりに出てきそうなドラゴンみたいで、鬼の部分完全無視。で、村人たちが家から飛び出して逃げまわるんですが、村人の数少なっ!サムライを迎えるところではもう少し多かったはずだろ!こういう部分いい加減ですよね。いい加減といえば、グンジョーが村人を襲うのは計画を実行するためで、本気で襲ってるわけではなく暴力は振るわないギリギリのところでやっていて、たとえば屋根の上に乗ったりするけれど家は壊さないんです。「ちゃんとこの辺はやってるな」と思いきや、崖のほうに村人を追い込むときに、崖に向かって何本も立っている鳥居をグンジョーが将棋倒しにしたとき、おばあちゃんギリギリ助かるんですよ。いや、危ない危ない!!なに、本当に危険な目にあわせてるんだお前!それにナキが助けに来る前に母親に抱かれたコタケが、もしかしたらあれはグンジョーじゃないのかって気づく描写があって、これで二人のケンカの間に入るのかなと思いきや、「ナキー!がんばれ〜!」って、えぇぇぇぇっっっ!グンジョーがかわいそすぎるだろ!これでグンジョーをまぁやっつけた感じになったナキが人間から信頼されるようになるというストーリーは「泣いた赤鬼」と同じなんですけれど、あんなにあっさり心を開いちゃうのも疑問を百歩譲ったとしても、コタケの兄が心を開くのはおかしいだろ!だって、冒頭でナキに殺されかけてるんだよ!少なくともナキは船を壊して海に沈めたつもりでいたんだから!「こいつ、俺を襲ったヤツだ!」ってならないとおかしいだろ!一緒にナキの怪我の手当てとかしてるのコイツ。さらに人間側からもののけ側を信じるようになったとはいえ、もののけ側が人間側にどうやって心を開いたのか、その辺は全然描かないで自然に回収してるんですよね。ナキが仲良くなったんだから、それでつながりができたんだからいいじゃんって感じなんですよ、ゴーヤンたちは物語中で人間たちに追いかけまわされているわけだからね。人間への恨み描写とかどうしちゃったの、ちゃんとしてくださいよ!こういうところ!

そして大ラスですよ。原作の「泣いた赤鬼」ははっきり言ってしまえば決してハッピーエンドじゃありません。自分の幸せのために、一番大切な友達が犠牲になってしまったことを後悔するというおはなしなですから、なのにエンディングのスタッフロールで、その後のナキや人間たちが仲良くする様子を出しちゃダメでしょ。なんかねぇ、ここ最近の日本映画のハッピーエンド症候群はどうなってるの!?って言いたくなるなぁ。百歩ゆずって後日談的映像を出すのはいいですよ。それでもね、正直グンジョーのその後は出さなくていいですよ。グンジョーはナキだけじゃなくて、映画を観ている我々からも姿を消したことにしないと。じゃないといなくなってしまった感じがしないですよ。ナキが泣いたあと船を漕ぐグンジョーの姿とか、スタッフロールに旅をしているグンジョーを出す必要はないと思います。それに「200年泣かなかったらナキと呼ばない」っていう約束があるんだから、それを思いっきりナキに叫ばせるとかしてほしかったです。「もうナキって呼んでいいからさぁ!」みたいにね。小さいころ、よく泣いてたからナキっていう名前の時点で、ナキは涙もろいこともわかるし、コタケと別れるときに泣きそうになってるから、あそこで豪快に泣かれても「ナキが泣いたぁ!」みたいな感情移入もしづらいんですよね。あえて褒めるのならば、ナキが浜辺に行ったときに、そこにあるものが残っているんですけれど、本当にこれぐらいですね。この映画でよかったのは。考え方によっては、あそこは「ススメ」のサインにするべきでは?と思うんですが。

物語上のことばかりに触れてきましたけれど、正直映像技術みたいなのも充分に生かされてないと感じました。なんか今回の作品、模型とCGを合成したハリウッドも一目置く新しい映像技術とか言っているんだけれど、その意味まったくない。ぶっちゃけフルCGでよかった。どこでその技術生かしてるのか全然わからない。

最後にねどうしても言いたかったことをひとつ。「泣いた赤鬼」がもとになっているとはいえ、ナキが豪快に涙を流す姿はやっぱり違うんだよなぁ・・・。でね、映画鑑賞後本屋に寄ったら、映画の特集コーナーがあって、そこにいろんな「泣いた赤鬼」の絵本が置いてあったんですけれど、そこにあった絵本(浦沢直樹さんが書いたものもありましたね)は全部“涙を流す赤鬼”をあからさまに描いていて「なんか、違うんだよなぁ〜」って感じがしちゃいましたよね。で、なんで僕がこう感じるのかというと、大人になってから、いもとようこさん作画の『ないた赤おに』を観たんですね。いろんな絵本をこの方描いているんですけれど、やっぱり子供の視点をわかってるなぁ〜って感じがしました。まず、泣いた赤鬼の描写以外にも他の絵本と違うのは、いもとさんは青鬼の手紙を見開きでドンと出すんですよ!青鬼の書いた字体で読ませるんですよ。他の絵本だと、赤鬼が読んでいる姿のものとか、手紙を出してるんだけれど、活字同様に明朝体だったりして、しかも絵本って大人が読んであげて、子どもは絵を見るっていう役回りじゃないですか。でも、この手紙だけはカタカナで書かれていて、子どもが赤鬼の立場になって読めるようにしてるんですよ。この工夫だけでも十分なのに、一番の見せ場である“泣いた赤鬼”描写が最高に泣けるんですよ。どういう絵かというと赤鬼が紙に顔をこすり付けてる後ろ姿を出しているだけで、涙を一滴も描かないんですよ、これだけで物凄い泣けるんですよ。また、赤鬼の肌の色が、このときだけ妙にうすかったり、周りの岩とかが、寂しいくらいに暗かったりするんですよ。姉が保育士ということもあって、この絵本が家にあるんですけれど、久々に読み直して涙腺がジワリとしましたよ。なんで涙のない絵なのにこんなに感動するんだ、そしてなんでこんなに辛いんだぁ!って、僕のなかでこれを超える泣いた赤鬼は二度と出ないだろうなぁって感じです。
もう本当にね「BALLAD〜名もなき恋のうた〜」のときも感じたことですけれど、オリジナルで1番最高の状態なんだからさ、余計な味付けしないでくれよ!って感じですよ。たとえるなら、カレー通の人たちに凄い評判のいいカレーがあって、そこに一人の料理人が「俺ならもっとおいしくできるよ」って言って、具材を高級なものに変えて作るんだけれど、「見た目おいしそう、でも食べてみたらやっぱり本来の味がいいよね」って言うんだけれど、その料理研究家は「いや、俺はこれが好きなんだよ」って主張して、一般人に出しちゃう。すると、それを本来の味を知らずに食べた一般人は「おいひ〜ぃ」ってなっちゃう。それを観たカレー通の人たちは苦虫を噛むって感じですかね。
たしかに、子どもたちがギャグ的シーンでキャッキャ笑って、泣くシーンで涙を流して、コタケがかわいい〜って言ってれば、それで充分かもしれませんよ。子供が泣くことを目的に作って、それがちゃんと答えで帰ってきてるわけですから。でもね。これまた僕の憶測ですけれど、山崎貴監督はね「大人も泣く、むしろ大人が泣くように作った。」と思うんですよね。だとしたら大失敗ですよ。帰って怒ってますよ僕は。来年頭にALWAYSの新作が後悔されるので。これでまた、好評を博してまた舞い上がっちゃうんだろうなぁ〜。

なのでこれから子どもをつれて映画館に行こうとしているお母さんお父さんは、子どもと自分の映画代、プラスポップコーンとか飲み物のお金で3000円近く費やすんだったら、いもとようこさんの「ないた赤おに」の絵本を1400円で買って読み聞かせてあげてください!そのほうが絶対に良いから!